音が聞こえる、切妻屋根から滴る雨粒の音、古めかしい響き、ちょうどそこだけ切り取れるような明確な音、きっと晴れだと思った。でも何も見えない。音が聞こえる。街で勢いづいたものが、田舎を訪れて柔らかくなる風の音、暖かい空気、何かが来る、匂い、花の匂い、友の花冠だ、河原を転げ落ちて川へ飛び込んだ花冠。花の混在した匂い、実家の花壇のそれ。南国の土に水の撒かれる音がして、トーストで焼いたパンの匂いが溶け込んだ。雨脚の強くなる時。音だ。水、深まるような水たまり、海、私を呑み込む言葉たち。溢れるように布団の感触が起こると、必死の息継ぎで気を取り戻す朝の目醒め。覚醒の意識の中でさえ、私は目を開けることができなかった。信号のない道路でひたすら長蛇の自動車を眺めるように、苦しくも悲しくもなく、楽しくもなく、抑止を全く為し得ないというように言葉は流れていくだけだった。私はそれを最近になって途端に経験するようになった。だからといって何の得にもならないのは、極めて展開の早い、そして印象の薄ぼんやりとした夢を見たといって何の記憶も残らないのと同じで、私は心のなかで言葉を竪機よろしく紡いでいくが、しかし綴れ織りの言葉の川には何の想念も浮かんでくることがなかったのである。子どものときに気にしてならなかった川の生態、あの川にはどんな生き物が棲んでいるのかと思う好奇心も全く入り込む隙間はなかった。それはある種の潔癖で、私という一人称の概念ですら弾かれるのであった。しかしもしその言葉の漂流が粉々に砕け散って私のもとに集められたとしたら、それはどれほど興味深いのだろう、私は永年の博物学者として生きていく覚悟も持ち得たかもしれなかった。ただ私はまた、今朝見た夢の内容を覚えていないのと同じように、未曾有の現象に対して猿真似をすることしかできないのだ。しかし夢の中で何を見たかという内容よりも、そもそも夢とは何であるかを考えるほうがよっぽど意味のある問いかけであると思っていた私にとって、昼はひねもす、夜もすがら夢の断片を拾い上げることはそれほどおもしろいとは思わず、エルヴェ・ド・サン=ドニの『夢の操縦法』を読んだときなら夢を記録することに大いに好奇心で満たされ、私も一つ試してみようとさえ躍起になったものの、結局、私は三日坊主の夢見のように、実験への企てをがさつな寝癖で忘却の淵へ蹴飛ばしたのであった。それと同様に、しかし万遍なく惜しい気持ちを抱きながら、私はこの愛おしいまでの些細な秘密を忘れねばならなかった。奇抜な経験が到来する前から、今日というこの日を私は楽しみにしていたからである。私は、鎌倉へ行って参ります、そしてまた戻って書きましょう。波に押し流されて辿り着いた浜辺は、彼方むかしの新宮浜、海で私は溺れました。しばらくすると私は目を覚ましたのです。舟に積んだ小道具と手に強く持っていたゴーグルが深い闇に沈んでいく、永遠を望むような輝きが私の顔の陰を一切取り払うと、海の煌めきが無辺に敷き渡って、裸の私は眠るように泳ごうとしたのである。しかし私は結局、浜辺に引き戻されてしまった。
北鎌倉の駅に着いたとき、晴天の風景がどっと目の前の粘り気を吹き飛ばし、異国のような慣れぬ夏が私を待っていた。改札口を出たとき、狭い道のほんの日陰のところに友人はいた。道の向こう先を見ていたのは、私が締まりのない顔をして探すところをこっそり見届けることが気恥ずかしかったからであろう。新参の者を迎えるように、とはいえ旗を携えた観光業者の忙しないそれとは異なって、後押しをするように、或いは私がどこまでも遠くを眺められるように彼女は紫陽花の咲く道を進んでいく。寺院へ向かう道の左手には細々とした川があり、川堀を囲繞する深い緑に水の流れがひっそりと潜むようで、それは暑日にこそ売られる夏のラムネのように冷たく思われた。暑さの感覚に対するひっそりとした風景は夏の趣きを対照的に輝かせるが、足裏を水底に浸したような清らかな安心感は、上澄みの青白い天幕に沈んだこの緑深まる町の居場所をいっそう確かなものにするのである。まるで特定の趣きを共有する人々が集い、文化を形成する村のように紫陽花の咲き誇る寺院の中では、その至高を見ることができる。兎が宇宙を夢見ると、時鳥が戯れに鳴く、小山の樹々や竹藪に覆われた花道もさらなる草花で人間の視界と歩幅を制限するが、それは夏の富士山を美しく眺めようと思えば、夕暮れどき、ラベンダーの咲き渡る大石公園から湖越しに見るのが良いと言われるのと同じであり、我々の視界に入る絶景を、細かなレンズでそれでも収めようとする写真家と同じである。雄大な空が限られた空間から見えると、それは人間を美しい瞬間へ導くのである。限定された空間に偶然に何かが入り込むとき、たとえそれが葉一枚の些細な偶然であれ、それは時という演出家が戯れるように美しい。私たちは写真を撮ることはしなかったが、それは瞬きがその機能を担っていたからであった。
寺院の正面口を通ると、観光業者の旗を先頭に多くの年配の観光客が始終行列を作っているようだった。私たちは彼らを通りすぎると鎌倉の街の方へ向かった。商店の並ぶ街ではまっすぐに伸びた道を人々が隈なく向こうまで、或いはもっと先の方へ歩いている。川の流れのような人波から横道に逸れると、私たちはまるで鰐が湖から地上へ出て進むときのように別の感覚を覚えるのであった。そこは人気のない閑静とした場所で、忘れかけていた陽射しがまた顔を出すと、ちょうど家の玄関の扉を開けたときに外の鳥の鳴き声や虫の音、揺れ合う葉音や隣家の自動車修理工のお兄さんが中古車の手入れをしている音がまったく新鮮に奥行きもなく聞こえてくるのと同じように、潜んでいたものが顕われるのを私は直観したのである。私たちはひと休みをするのにうってつけの喫茶店へ入ったが、ギャラリーがとなり合ったり陶器や小道具の店がこの街に多いのは、若いアーティストが挙って興そうとするからだろうか、私たちが入った昔ながらの喫茶店にも創作意欲を掻き立てるような芸道講座のチラシや変わった小物が置かれていた。しかしそれらを支配するのは時の止まったような古質の、昔の記憶を留めたような空間で、それは針を廻すのを止めた気まぐれの時計を旗下に、かつては意味を持っていたがいつの日か行き場を失った煙草の煙、或いは大人の洒落た口説き文句や鯔背なため息をやさしく吸い込んだ壁や机椅子をこじんまりと並べていた。友人が辺りを見まわせば、視線の先を追うように私は目を動かした。彼女と向かい合って対面するのはこの日は初めてだったが、そのときといえば、私たちの視線は常に好奇心から発せられていて、店の中を隅まで響き渡っていたジャズのように自由に、そしてまた定められた風景の中でこそ楽しむように動きまわるので、私たちが目を合わせることは話をするときにほとんど限られていた。もちろん、黙ってお互いの目を見つめ合うことはなかったし、私には到底出来ることではなかった。友人は円形のテーブルに置かれたコーヒーカップや青色のタンブラーガラスを見つめ、この円形には或る真理があるな、と何やら思慮深い面持ちで私に告げると、私はそれが何かを考えなければならなかった。それは彼女が「何だと思う?」と唐突に聞いてくるからであった。友人は詩人であるが、それだけまた芸術への関心が高かったので、こうした何の脈絡もない質問を放つことは常なることであった。「なんの変哲もないテーブルだよ、コーヒーカップがあって、小皿の上にミルクを容れたコップがある。そのプリン、美味しそうだね。」と何も考えずに私は言ったが、それをいささか無視するように「芸術家はね、少なくとも芸術を志す画家はね、この平凡なテーブルを美しく描くんだよ。その為には何が必要だと思う?」と彼女はプリンの入った皿を私の方へ寄せながら更に疑問を投げかけた。高貴な偶然と感動、と私は、太陽を背景に馬が高い柵を飛び越える瞬間や木漏れ日を浴びながら高貴な人々が愉しく会話をする姿を取り留めもなく思い浮かべていた、「例えばこのテーブルに蝿が止まったのを見るや、君が嫌って叩き潰してしまい、いやはや悪いことをしたかなと少しでも良心が生じるのだけど、嫌だといって為した行いとその後の不善への心遣いとの淵を深めるように、それを助長する事が起きる。この潰れた蝿の上に、注文をしたショコラが置かれるとかね。でも、それは美しいと思う。芸術家は美しいものを描くのだから。」と追加した。私は彼女が自分の答えを持っていることを既に予感していたし、きっと同感を得ることはないだろうと思っていた。そしてやはり、言葉の舌触りを確かめるように黙った後で、「それは神妙で美しい。私も思う。でも君の言う偶然という言葉はきっと必要とするものでも、できるものでもないよ」と彼女はその真相を明かすように応えるのであった。「本当は蝿なんて必要あるかな。こういう立派なお店じゃあ蝿も飛んでなさそうだし、なにより芸術家はこのテーブルが平凡極まりなくて描くに価しないと思えば、このコーヒーカップの位置を変えたり、コーヒーをこぼしてみる、或いは想像を膨らませれば、君のように蝿を描くことだって出来る、つまり、自分から働きかけるということは自分の美的感覚と描く対象を同一にする、黄金比率に沿って絵画の構成を定めるのと同様に技術的なことなんだよ。」私としてはそれは霧の中に一本の樹が立っているような問題のように思われた。確かに人間は偶然に溢れた世界の中で美しいものを見出すことができる、それを美しいと感じることができるのだ。しかしそれでは曖昧かつ不十分なのであって、人間が自分から働きかけることによってこそ、美しいものと美しいという感情が明らかに一致するのだろう。「おもしろいね。芸術家は、いや、人間は美の感覚でもってすれば、このテーブルでさえも美しく描くことができる、むしろ、たとえこのテーブルを挟んで座わらなければならなくて、その条件下で何かを描かなければならないという時でも、ぼくたちは自由に描き得る。」私が最後に「プリン、美味しいね。ありがとう。」と言うと、たまごみたい、と彼女はくるみの添えられたプリンに言葉を加えた。人間各々が見る世界は時折窮屈に思えても、あらゆるものに全てを縛られているのでなければ、何処かに覗き穴ほどの自由の領域が必ずあるのだろう。 それを時に見つけるのは困難であるかも知れないが、実は案外なところで見つけられるのかも知れず、すでに見つけているのかも知れない、それが意図に沿って見つかる時には、夕空で鳩が羽搏くのに似て、きっと美しいに違いない。
ひと休みをして喫茶店を出ると、この店は多様なる記憶の石の中に居るような異質の空間だったように確かに思われ、そのとき、忘れていた外気が私たちの身を包みこんだ。時計が夕刻を知らせると、まだその大部分は青々しかったが、その端のほうでは淡く多彩に空が色めいており、静寂の中へ消えていくように青の深まる海辺へ、私たちはゆっくりと向かった。