間もなく先ほどの女性がメニューを持ってやってくると、私は彼女の目を見て会釈をし、彼女の指がメニューを指すと、彼女の声はその辺りに溶け込んだ。あまりに落ち着いた身姿とよく似合った服が彼女の輪郭をぼやけさせると、その具合が内装と調和してしまう為に私はたとえその気がないとはいえ、不純な心を生じさせる動機が一切残されていないのだと思った。そして私も背中を伸ばすようになっていた。それはお店の雰囲気からというだけでない、壁に付されたソファと小さな円卓が狭い間隔で私を挟んでいたからでもある。しかし、私はこの内装設計を精緻で優れていると大いに気に入っていたのである。それは私に美味しい珈琲や可愛らしいチーズケーキを、丁寧に優しく、肉体から美的感覚へと染み渡らせるという最高位の目的に至るまで設計されているようでさえあった。そこでも私が疑念の余地をあずかることはなく、高級料理店の極めて丁寧に作られた海鮮料理に対してきっと美味しいのだと思いながら、他方ではその真味を充分に感じとれない青二才の食感覚への懐疑もあり得ない。それは私に解放感に似た安心を与えるのだ。珈琲の薫りをほんのり口に含ませながらチーズケーキを食べ終わると、まるで砂時計さながらにそれが消化されるあいだ、私は代わりにいつかの映画館のことを雑然と考えていた。あの時の傘は結局、私が持っている。私が傘を差し上げようとした或る女性のことを考えていた。それは遠い昔にめぐり逢ったものが、ごく短い帳場ではなればなれになってしまった或る女の子とのひと時を回想するのと同じで、何が違うと云えば、私はその女の子とまるでドッペルゲンガーのようなめぐり逢いをしたので、悲痛の過去を引きずりながら遠ざかる彼女を私が止めようとすれば、どうしても私は自分の影を掴んでいるように思えて、結局彼女を止め得ないと挫折したことだった。映画館の入口で会った女性との記憶から私が考えるのは、どちらかといえば、歩道橋を渡るお婆さんを此方から彼方まで手伝ってやったは良いが、些かでもその後が気にかかるような遥か遠い黄昏である。私はそれでまた思い起こすことがあった。隣に居た男性が少し先の時間に立ち上がって喫茶店から出ていったので、私はその欠けた空間の分ほど、もっと色んなことを思い起こせる気がしたのだが、それは果たせなかった。それは店の女性が近くにやってきたからで思念の躍起も間もなく消え失せた。そしてその新風たるや何かと思えば、「こちらをどうぞ。」と彼女が言うと、それは香ばしいクッキーとチョコレートの匂いだった。「なんだか私の弟に似ています。大学生だけど、その大人しい、雰囲気というか……」澄んだような息を伴って発せられた突然の声に、彼女の瞳に漂う哀情にどうして応えるといいのか私には分からず、私が大人しいという性質を十分に自分で理解できても、その理解の相容れない別の性質が彼女の言葉の中に頑なにあったのかも知れない。彼女とのあいだの繊細な膜を破らないように私は礼を言った。「どうか、ごゆっくり。」と言うと、彼女は向かいの席へ進んでいった。気づくと向かいに座って本を読んでいた女性は店を出ていたらしい。息の深くまで落ち着いた空気、小粒の音が訪れては消えていく。ソファと円卓のあいだを深く沈み込むように、そして本に写された文字が止めようもなくそれぞれ緩やかに滑りだすうち、私は次第に夢見心地になっていった。
私が目を覚ました時には、前の先客の二人と同じ場所で、そしてちょうど隣には男性、向かいに女性が座っていた。彼らは思いなし若く見え、それぞれがまるで先客の残した影を帯びつつも、しかしまた空気の変わったような新鮮さはあったのだが、その新しさは私の中にのみ成立するのであって、彼や彼女からしてみればどんなに若い私でもとっくの昔の遺物のようであり、それも無関係に時の流れに任せることのできる遺物であった。朧気に私は天井を見上げてしばらく静止していたが、やおらに立ち上がって店を出ようと決めると、もう一人の店番の男性がそっと応じてくれた。喫茶店の入り口の扉を引く時、私は混じり気のない、風のように素直な自分に気がついた。