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六月の垣間 (2)

午後、私は近所の喫茶店へ寄ってみた。私が扉を開けられないでいるところをちょうど中に居て気づいた店番の女性に手伝ってもらった。入る時はノブを廻して押すのだが、気を遣いそうになる年季の入った扉で、もちろん私は気を遣い過ぎたのである。喫茶店の内は非対称的で、二等分に分裂した身体があればきっと片方は用なしとなるに違いないような、それほど私の片側の視覚をインテリアグッズや業務用品、それと白濁の壁が占めていたが、決して狭さを感じさせない空間があった。ソファに座り左手の窓を覗くと、大通りが街路樹を並べて南の方角へ延びていて、それでいて平坦な雲のせいか広大さを感じさせない閉じた外の風景が見える。とても静かで、物音が一つ一つ聞こえてくる。隣の小さいテーブルに年配の男性が姿勢良く項垂れたように寝ているが、それは彼の余睡の時間が三十分に厳しく制限されているようにも思えた。さらに私のちょうど向かい側に座っている女性がいて、本棚から一冊の本をやおらに選び出して読んでいた。外界の弱々しい雨音が聞こえるほど繊細なドビュッシーの「夢想」が何処から流れている。それがまた陶然とさせる雰囲気の根底を泳いでいる為に、腰を落ち着かせた時には水を得た金魚のように私は辺りや天井を感じるままにぼんやりと見遣った。そのとき、本当は此処まで聞こえてこない雨の音をその個人的な鋭い耳で穿つように聞くのでなく、私は想像のなかでただ感じているのかも知れなかった。それはどういう音であろうと不思議に思った。映画館で聴いた音かも知れないし、いつの日かヘッドフォンから想像した音かも知れない、或いは喫茶店に入るまでに聞こえていた雨音の残響かも知れなかったが、私はこの雨の音が外から聞こえるそれではなく、私の心の中でのみ囁やかに響動み得るものだと思ったのである。しかしその音の正体を知ろうと詩人が私の心の中を探ろうとしても決してそれは見つけだせないだろう。それはどんなに様々な「雨の音」があるといっても、そうした音を実現する物理的な音はあり得るが、それを実現させる言葉は決してあり得ないということに由来する。もし「言葉にできないもの」を産んで止まない絶対的な表現が実在するならば、人間は決して「如何に表現すべきか」を問う文学など不可能で、そこには少なくとも妥当性のある形では想像の余地がないのである。快適な室内で私が感じたものは、雨に呼び覚まされた詩情に他ならなかった。雨降る街を映す窓の縁に幾らか古された文庫が置かれていて、それらは別の窓のように思われた。

間もなく先ほどの女性がメニューを持ってやってくると、私は彼女の目を見て会釈をし、彼女の指がメニューを指すと、彼女の声はその辺りに溶け込んだ。あまりに落ち着いた身姿とよく似合った服が彼女の輪郭をぼやけさせると、その具合が内装と調和してしまう為に私はたとえその気がないとはいえ、不純な心を生じさせる動機が一切残されていないのだと思った。そして私も背中を伸ばすようになっていた。それはお店の雰囲気からというだけでない、壁に付されたソファと小さな円卓が狭い間隔で私を挟んでいたからでもある。しかし、私はこの内装設計を精緻で優れていると大いに気に入っていたのである。それは私に美味しい珈琲や可愛らしいチーズケーキを、丁寧に優しく、肉体から美的感覚へと染み渡らせるという最高位の目的に至るまで設計されているようでさえあった。そこでも私が疑念の余地をあずかることはなく、高級料理店の極めて丁寧に作られた海鮮料理に対してきっと美味しいのだと思いながら、他方ではその真味を充分に感じとれない青二才の食感覚への懐疑もあり得ない。それは私に解放感に似た安心を与えるのだ。珈琲の薫りをほんのり口に含ませながらチーズケーキを食べ終わると、まるで砂時計さながらにそれが消化されるあいだ、私は代わりにいつかの映画館のことを雑然と考えていた。あの時の傘は結局、私が持っている。私が傘を差し上げようとした或る女性のことを考えていた。それは遠い昔にめぐり逢ったものが、ごく短い帳場ではなればなれになってしまった或る女の子とのひと時を回想するのと同じで、何が違うと云えば、私はその女の子とまるでドッペルゲンガーのようなめぐり逢いをしたので、悲痛の過去を引きずりながら遠ざかる彼女を私が止めようとすれば、どうしても私は自分の影を掴んでいるように思えて、結局彼女を止め得ないと挫折したことだった。映画館の入口で会った女性との記憶から私が考えるのは、どちらかといえば、歩道橋を渡るお婆さんを此方から彼方まで手伝ってやったは良いが、些かでもその後が気にかかるような遥か遠い黄昏である。私はそれでまた思い起こすことがあった。隣に居た男性が少し先の時間に立ち上がって喫茶店から出ていったので、私はその欠けた空間の分ほど、もっと色んなことを思い起こせる気がしたのだが、それは果たせなかった。それは店の女性が近くにやってきたからで思念の躍起も間もなく消え失せた。そしてその新風たるや何かと思えば、「こちらをどうぞ。」と彼女が言うと、それは香ばしいクッキーとチョコレートの匂いだった。「なんだか私の弟に似ています。大学生だけど、その大人しい、雰囲気というか……」澄んだような息を伴って発せられた突然の声に、彼女の瞳に漂う哀情にどうして応えるといいのか私には分からず、私が大人しいという性質を十分に自分で理解できても、その理解の相容れない別の性質が彼女の言葉の中に頑なにあったのかも知れない。彼女とのあいだの繊細な膜を破らないように私は礼を言った。「どうか、ごゆっくり。」と言うと、彼女は向かいの席へ進んでいった。気づくと向かいに座って本を読んでいた女性は店を出ていたらしい。息の深くまで落ち着いた空気、小粒の音が訪れては消えていく。ソファと円卓のあいだを深く沈み込むように、そして本に写された文字が止めようもなくそれぞれ緩やかに滑りだすうち、私は次第に夢見心地になっていった。


私が目を覚ました時には、前の先客の二人と同じ場所で、そしてちょうど隣には男性、向かいに女性が座っていた。彼らは思いなし若く見え、それぞれがまるで先客の残した影を帯びつつも、しかしまた空気の変わったような新鮮さはあったのだが、その新しさは私の中にのみ成立するのであって、彼や彼女からしてみればどんなに若い私でもとっくの昔の遺物のようであり、それも無関係に時の流れに任せることのできる遺物であった。朧気に私は天井を見上げてしばらく静止していたが、やおらに立ち上がって店を出ようと決めると、もう一人の店番の男性がそっと応じてくれた。喫茶店の入り口の扉を引く時、私は混じり気のない、風のように素直な自分に気がついた。