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ファウスト

ゲーテのファウストを読み終えた。読み始めから存外早かったが、ファウストを初めて読もうと思った時を思えば、大洋に遠く隔てられた世界を望遠するように、それはやっとのことである。ゲーテの文学作品は、これで三冊目になるだろう。はじめに「若きウェルテルの悩み」を、つぎに「タッソオ」が続き、そして「ファウスト」である。ファウストはどの作品よりも早く私を読書へ誘うが、それは有名で、ただそうであるのみでは勿論ない、代表作として、生を豊かにする作品として有名だからである。また私はドイツ語を読むというので、何となく教養として典型的なものではないかと思っていた時期もある。然し何にせよ、私は結局今まで読むことも読み始めることもなかった。それは単に遠く領外の小難しい調子がそうさせたのであるが、もとより私は語彙を知らない為に為体に陥るのが原因であった。そうして、その気怠い衣を振り払えば童子さながらに読むのであろうか。心に含ませながら読まないでいる作品と言えば無数に至るが、常々気を起こしていたものに対して私も目を醒ますということはなかなか稀なことで、それだけで素晴らしい経験を与えられるようだ。


「若きウェルテルの悩み」は美しい。「タッソオ」は私に心の霧の所在を明らかにしてみせ、捻くれ柔弱な私を堂々たる歩みへ、少なくともその確たる一歩へ導いた。そして「ファウスト」は崇高である。この端的な表現は何の真実も与えないであろうが、私がこの作品に最も何を見るかといえば、それより外はないと思うのである。舞台上に登場した幾万の存在は、過ぎると思うほど多い、私はそのお祭り騒ぎに幾度飽きそうになったか知れない。そして奴らは各々語っては消えていく、まるでゲーテが出会った人間や歴史の諸々を何も残さず登場させているようで、掴みどころがない。メフィストフェレスが「永遠な虚無」を好きだといったとき、やっと彼らの役目が果たされたように思えたものだ。多くの人間が陥っては嘆きに尽きるところであるが、本質がない限りでは、あらゆる多様なるは端的に虚無である、其処に意味などあり得ない。これに気づかない人間は粗雑な雑草を心の寝床にするだろうが、そうした人間が居るわけではないだろうし、居たとしても彼はそれでも人間であり得る。よろずの神々も、悪魔や天使、霊魂も、人間や魔女であっても、めいめいの語る教訓はどんなに諸行無常の世の中であれ我々の刹那において意味を多分に持つ。このことは人生を考える以上極めて重要であって、例えば人生の意味ということに関して言えば、存在するということが何より自然なことである、と我々はそうして気づくのである。人間から虚無がどうしても離れないと雖も、最も根底に存するものが、ただそれだけが、無常を混乱の淵より救いだすことができる、つまり、虚無という天幕に覆われたものが存在の光に照らされるとき、そのとき意味を持ち得るのである。私はこの点に関しては、ファウストを読んで改めて明らかに思うに過ぎない。しかしまた、私はこれを始点に、この作品の、そして人生というものの会得を精巧させるのでなければならないだろう。そして私は「永遠な虚無」という新しい萌芽を見つけたのであるから、それはまた別の機会に別の形で書くかも知れない。ところで、ファウストは何度も読むようなものではない、その時折の教訓は頼もしいがそれは決して満足させはしない。無量の存在が舞台を飾るとき、此の作品はとても美しい。が、それよりもこの作品は崇高へ向かう。それはこの作品を読むのに骨を折る、いわば広大であるという故か、その語調の為かも知れないが、私の今まで述べたことが示すように、この作品は刹那の美しさを極めるものでない。寧ろ永遠なるものが、崇高の感情へと牽いて至らしめる。永遠を求める花火だけが、美しき火花を散らす。


「ファウスト」という作品は読むのに面倒な作品だろう。類稀なる想像力と豊穣なる教訓によって飽きることなく我々は娯しむにしても、やはり長いと思うのであるが、それは耐えるべき長さであって、乗せられた車に漂う疲労感でなければ、長丁場の旅路の末に行き着く達成感である。それだけこの度の読書の経験は充実していて、それが暖められ熟した時には如何なる実のりが見られるかと、楽しみである。想像するということをより娯しみに生きられるようで在りたい、と私はこの作品をもって思う