驟雨が夜を形づくった。私は傘を生憎持っておらず濡れる外なかったが、何処か遠くへ歩くわけでもなく、行きたいという場所は駅からすぐのところにあったのだから、幾らか雨に濡れても瑣細な我慢だと思った。雨に打たれる人間に狂気を感じとるのは、それが彼の野性をあばきだすからだろうか、むしろ人間が雨に濡れるという状況のなかで自ら狂気を示そうとする表情かも知れない。どちらにせよ、私は一心に目的の屋根のある場所、濡れずに済む場所へたどり着く自分を思い描くだけである。私の向かう濡れずに済む場所は高いビルにあった。まるで得体の知れぬ巨人を相手とするように、それがまた一向に動こうとしない為に少しだけその身を慮るように、建物の真下から空を臨むと私は遙か昔の廃れた文化を思い、それを灰色の雨が更に強調するのであった。鈍という雨粒が恥じらい気味の額に当たると、疎ら模様の私は建物の入口へ向かった。入口から五階へ上がれば小さな映画館がある。下層階で各々の買い物を済ませた人間が来るというよりも、それを避けて来るという隅に居つく張る人間たちの憩いであり、映画館それ自体も、まるで蜘蛛の巣のようである。そこへ私も映画を観に来たのだが、目当てはスタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』と既に決めていた。この作品こそは、必ず、その新鮮な刺激を大きなスクリーンで経験しようと思っていた私の貴い夜である。余計な心配をしないように開場前には御手洗いへ行き、そのあと持参したサンドイッチを食べて、そして私は大きなスクリーンをちょうど真ん中に割ったところに、恋愛盛りの二頭を右手前に席に座る。息を呑んで待った。映画が始まると、いつものように私は惹き込まれていった。主人公アレックスの鋭い眼つきから、映画の世界へと。
観終わるときには夜も幾分深まって、私は満足したという表情、それは空腹が満たされた時とは全く異なる様相であり、まるで極めて深い核心を得たという時の神妙なる心持ちで、自分は全く変わってしまったのだと言わんばかりの、良質な文化に触れると決して避けられることのない表情をしているに違いなかった。上映前後の御手洗いを完璧に遂行した後で五階から地上一階へ降りたとき、雨はいっそう強く降っていた。私はこの日に此処へ『時計じかけのオレンジ』を観に来たのだが、その印象の奥で『雨に唄えば』がこだまするようであった。隣に偶然いた女性がその雨に耐えうる傘と心を持ち合わせておらず、幾時を牲に難渋していたのを見て、私は隣のスーパーで都合良くビニール傘を買うと、その女性に手渡した。私の前で貰った傘をどのようにさして歩けばいいかと彼女は随分戸惑うだろうと決めて、それより前に去ってやろうと私は一目散に駅へ走った。交通に運良く巻き込まれず駅の入口に着くと、傘を渡した先ほどの女性が私の後ろにいた。それはまるで私と鎖で繋がっていて、私が動けば彼女も仕方なく動いてしまうという風に、彼女も自分が何を考えているのか分からない様子であった。彼女の靴は濡れていたに違いない、大きな水たまりを強く踏み込んだに違いない。「ありがとう。」と彼女は言った。女性の麗しき黒髪は肩までしか伸びていなかったが、彼女が乱れた横髪を左手で耳にまとめてかけたとき、私の先きの自分の行為がてんで粗略なものだったように思われて、私は相手の大人びた仕草から自分の恥ずかしさを感じるのであった。私の粗略な癖はそれだけに留まらず、どうかして私は「いえ、こちらこそありがとう。」と言うのである。見透かしたように彼女はそれに微笑んでみせ「電車に乗りますか?」と私に聞くと、私はやっと気を落ち着かせた表情でそれに応えた。途中まで同じ帰り道だと知り合って、私と彼女は駅の構内へ歩いていった。そのあいだ私たちは他愛もない、自分にも相手にも当たり障りのない話をしていたが、それはお互い、各々の心の中では最も重要な事柄が夜を占める暗闇のように潜んでいて、それを如何にかして丸めたいと懸命に注意していたからに他ならなかった。私は兎に角、途中まで帰り道が同じで、いつか別れを告げる時がきて、それは当然のことであり不逞の心は全くないが、そのとき一体どう振る舞うべきかという困惑で頭が一杯であった。そうした想像はどんなに周到を極めても決まって現実に当てはまらない。結局「ありがとう。」と「良き夜を。」を互いに言う合うのだが、それはもっとも、今日という貴き一日に対してそうするのであった。途中の駅で彼女を無事に見送ると、私の心の中に寂しさが込みあげてくる。一日というのは短いものだ。しかし時には長くも感じられる。いずれにせよ、その内に誰かと伴にする時間と云えば儚い。それだからとて、私は刹那を徒に有難いと言って微塵切りにするわけではない。寂しさを募らせ、儚さを漂わせるような、私が言う時間というのは決して一秒でもなければ一分でもない、一日でもなければ一年でもないのである。彼女は東へ進んで行った、何を思って帰宅するのだろう。私は北へ進み、そして遂に地元に到着すると、宵から降っていた雨が僅かな音を残して止んでいた。