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人間観察

ある活動に対して、すべきではないという消極的な意向は多々あっても、すべきであるという積極的なそれは少ない、いやむしろ他を包括する形で一つしかないほうが良いときがある。なぜなら単に積極的なそれを私が幾らか抱えると、私は途端に疲労するからである。それは幾つかの意向を包括するさらなる意向が要求されるからで、私はよりいっそう険しい山頂を目指さねばならぬであろう。私はそれを必要とする場合もあるが、軽率にはできないものである。ところで私は積極的な意向と消極的な意向とがあり、それが如何なる性質のものか、或いはそれが私において如何なる性質のものかを問題にするのであって、物事がこれら二つに区別されると言うのではない、なぜならそのとき問題となるべきは物事だからである。ある事柄を遂行しようと思うなら、それ以外のことは排除すべきであるとは言わないだろう。

(ⅱ)
対人関係における重要な要素がある、それは共通性である。対人における関係を展開する為には共通性が大きな役割を果たす。この必要を興味深い形で示すのは、我々が互いの間の偶然と呼ぶところのものが関係構築の初期に極めて頻繁に乃至重大に見出されるということである。重大だと見出される事柄が実際に重要であるかに関わらず、我々はそれを正しく「お互いの共通点」として呼んでいるのである。
またさらに、それが各々意識されることはないという意味でより内的であり、そして互いに共感を呼び覚ますものとしての共通概念がある。たとえそれがないか、少なくとも見出されなくとも関係は上等に展開され得るが、それが共感という形で見出されるや否や我々は偶然性における以上の強い感動を得る。我々は意識せずに対人においてこれを探そうとするが、共通概念は全く「深い」内容を持つ必要はなく、従ってごくふつうの意味によって形成されるのであるから、例えば「人間関係には誠実さが大切である」と二人で互いに理解し合う(というよりも共感し合う)ならば、彼らは不誠実や信頼などといった周辺的なものに対しても互いに敏感になるだろうし、実のところ、概念に関する各々の理解が深いところで異なるものであるということもまたあり得るだろう。重要なのは共通性が方向づけを与えるということである。我々は共通性を深めたり、そこから共に派生させていくなどして良い関係を構築することもできるし、また逆に期待に沿わないということから関係が悪化してしまうことさえあるのである。

私は半ば恣意的に「お互いの共通点」と共通概念とを区分して述べているが、この区分が明確であるか、重要であるかは今のところ考えていない。いずれにせよ我々は関係構築における共通性というものが興味深いものであることを知るのである。

(ⅲ)
人間関係において各個人が各事情に明確さを求めることがある。「なんでも言ってほしい」というのがそれであり、また従って「私も言いたいことがあれば必ず言う」という。多くの人間は言いたいことがあっても言えないであろうし、なんでも言われるのは苦痛である。しかしこのことは極めて漠然としている。言いたいことがあっても言えないのに、なんでも言うことが出来るのは矛盾である。では、別の方向から考察してみると如何なるかな。私は相手に言えないことがあるのを知っている。そしていつかそれを言うことが出来た場合、それがどんな結果になろうとも彼はすこぶる安心した気持ちになるだろう、従って、私が「期待する」ことは、彼が彼の言えないようなことを彼自身から私に伝えてくれることである。この期待から私は彼を手伝っても良いと思う。つまり、彼に婉曲表現で問い質すのでなくて彼が自然と伝えようとする方向へ導くことは、互いにとって有益であるかも知れないのである。この点から考えれば、なんでも言われることで苦しむことはないだろう、なぜなら我々は彼にそれがいかに互いに害であるかを忠告し得るからである。
明け透けに物を言う人間と言えないことのある人間とが別に存在すると私は考えない。先の期待が無力であれ、私はこのことを知るだけで人間関係の妙に入り込んだと思える。私が彼には言えないことがあると思いなし、もしも彼が言えないことをすべて言い尽くすなら、私は彼を優しく受け入れるであろうし、以前に恐らく抱いていたであろう不安と恐怖から解放された彼が幸福になるだろうことをも想像する。私自身の場合も然りである。言えないことを言うことのできる「明確さ」と明け透けに物を言うことが同じであると、どうして言えようか。

このように私は幾らかの思念を現在同時に抱えている。先に述べたように各々を精緻に述べることは骨折りであり、それゆえ今や説明不足は否めないであろうが、私は眠らねばならないのでこのへんで。