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八月の散歩「夜の風」

平均律クラヴィーアだけが私の幼少期を知っており、それによれば、私の忘れ去った記憶までが鮮やかに甦るという。浅野が思い出すのは、気取ることなく顔を見せているというのに、真実が冴えない理由でいつも人間の猜疑に覆われてしまうのと同じように、毎日聴こえてくる平均律クラヴィーアに対して幾らか幼年の自分は嫌悪感を抱いたことだった。飼い犬を酷に扱う子どもさながらに、彼女は目の前にあるものが何であるかを全く理解していなかったのだという。しかし、それは子どもらしいものであるとも浅野は思った。子どもはなんでも知っていると気優しい人間は言うが、子どもの知の可能性が限りなく存在するというだけのことであり、平均律クラヴィーアが教えてくれるのは、まさか自分が発達神経症であるとはそれが表面化するまで気づかなかったというのと同じであの頃には知る由もなかったが、それは毎日聴くのに充分心良く、美しいものだということである。しかし、毎日聴くには憚りがあると、浅野は思ってもいた。それは新しく買った衣服を汚れがつきそうな日には着られないと思うのに似て、聴くたびに得られる印象を、あるいは豊かな想念を少しでもそのままの鮮度で保っていたいという感情の故であった。そうした感情を越えたところにバッハの不死の音楽の鮮やかな創造性が見出されるのであるが、そこまで考えるには至らず、ただ印象の限りを尽くそうとばかりに聴こえてくる普遍の音楽に彼女は耳を傾けるのである。

自然公園へ行こうと、線路を越えて学校の方へ向かう山道で彼女は部活帰りの川崎に出会した。彼は彼女の家の近くの同級生で、小学生の頃に町内会の行事でよく遊び、それ以来仲良くしている間柄であった。
浅野は彼の表情の微動を見て耳に挿していたイヤフォンを外したが「...んだけど」と聞こえたくらいで、すかさず聞き返したが「いや、なんもない。」と川崎が微かに応えるので呆気になった。とはいえ普段と異なる遭遇で、前に立つ人間とは無関係な仕草にいちいち照れ臭さを滲ませながら、彼女たちは別れを告げた。しかしそれがまた奇妙だと思ったのか、川崎が彼女を呼び止めると、後先を考えていないような、慣れない呼び止め方に一瞬の沈黙が入り込んで互いの顔がいっぱいに火照ってしまった。何でもない顔合わせもここまでくると、なにかわだかまりのようなものが募ってくる。川崎は己の大胆を墓荒らしさながらに暴いてみせ「そういえばさ」と言いだした。「お前の読書感想文よかったな。浅野があんなこと書くなんて今まで一度も知らなかったけど、本読むの好きだっけ?」と彼は浅野に尋ねた。そのくせ「好きだけど、そんなにたくさん読むわけじゃないし」と彼女が応える途中で、「今度お勧めの本教えてよ、考えといて。」それじゃ、と早速彼は帰っていった。いっときのあいだ浅野は彼が残した印象と共に立ち止まっていたが、彼女は先の川崎との変に不器用な会話が下らなく思えて笑いを堪えた。浅野は一度だけ川崎の真っ裸の姿を見たことがあった。それは今年の春休み、浅野の家に川崎が初めて遊びに来たときで、彼女がそれを見たいとけしかけたのだった。訳も分からず彼は互いに裸を見せ合うことを条件に要求に応じた。結局浅野は下着のパンツを履いたままだったが、彼女は男の子の裸を目の前にじっと見て茫然とした。あのとき見た人間の裸は想像するほど官能的なものでなく生身の人間というただの認識しか与えなかった。それに比べれば、さっきの川崎の仕草はそれなりに唆られるものであるとさえ彼女には思えるのである。浅野は茂みから何か物の気配を感じとって見遣ったが、樹々の間を小鹿がぴょんと飛んだ。辺りを見回せば、日はあっという間に夜になろうとしている。
浅野ちゃんッ、と呼ぶ声の方を彼女は振り向いた。それは川崎の部活の友だちだった。アイドルのような愛敬のある顔は今日も汗で輝いている。彼の姿がみるみる大きく明確になっていく。本当だった、走っている。彼は急ぐ様子で川崎を見なかったかと浅野に尋ねた。川崎が少し前を先に歩いているだけなのを知ると、川崎の友だちは向こうを目指してまた走ろうという勢いである。川崎は道具を部室に忘れていったようで、それを届けようとこの友だちはわざわざ走っているのだ。間もなく友は風の如く走り去った。

部活生二人のちいさな追走劇。私がもし川崎を変な話に付き合わせて止めていたら、私たちは滑稽にぶつかっていたかもしれない。もし私が川崎の友だちを止めていたら、川崎はもうどこかへ居なくなっちゃうかもしれない。私がもし川崎の友だちに届け物を頼まれたら、私は今ごろ走っているかもしれないし、近所だからといって夜遅くに届けるだろうか。このように想起しているうちに浅野は手持ち無沙汰になった。人気のない道路の赤信号のように、おいていかれたような虚しさが夜道を占めている。夏の夜空に雲隠れの月が見える。出ておいで、もう、誰も居なくなったよ。浅野の前には、さきほど見た小鹿がたっていた。