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八月の散歩「夏の終わり」

心のさわぐ執心は、人を惑いの展望へ導いていく。課題を忘れようとする少年のように、時間はあるといって人は眠り苔けようとする。夏の終わりの感情も永遠にそのままであるかのように思えてしまう。雨の滴はいつも葉の端で輝き、今にも落ちそうに垂れているのかもしれない。さて、秋の夜長の秋霖のながめは人間の想いをたやすくさらっていくだろう。肌を焼く陽光は薄らいで、夏の匂いだけが消え去ろうとする。ひととき止んだかと思えば未だに鳴く蝉が必死に遺す余韻がある、それだけで充分だというように、それだけが夏の記憶だというように。

浅野は目の前を走り去る小鹿を追いかけた。こんなところを走っていると危険だと思いながら、彼女は複雑な路地を廻り、道を切るように細い階段を降りたが却って小鹿を見失ってしまった。辺りは閑散として真っ暗だった。残念、とため息を吐いた。それは小鹿と戯れることができなかったからであるが、夕飯のことを考えると、そして今日の夕飯に彼女の好きな麻婆茄子が用意されているのを思い起こすと、家に帰らざるを得ないからでもあった。彼女のほんの小さなため息には、自然公園へ行くのを止めることだけでなく、それを突発的に発案したときの自己の喜びが虚しくなることへの心惜しさが含まれていた。ところで、彼女は此処がどこか分からなかった。しまったと思うのが普段ながらの感性であれば、彼女はとりあえず歩いてみるという様子で、何か知っている印でもないものかと見まわし歩き続けた。
「そっちはどっちだい。」と近くで、それも肌に触るほど近くで声が聞こえた。誰かと顔を四方に振り向けば「あなたはどこへ向かうのです。」と声は応える。私の方が聞きたいのだけどなあ、次第に不安を感じながら「誰なの。どこにいるの。」ともう一度尋ねてみれば、自分の真横に猫の頭が見えた、不思議と大きい、人間のような図体で、可笑しい。彼女は呑み込めないものを吐き出すように仰天したが、視線は化物の方を外れなかった。地下足袋を履いて、黒い着物を着て、二匹の金魚の入った袋を手に持っている、手は人のそれだった。其奴は道の奥を見つめながら言った。
「こっちへ行ってはいけない。化物の巣窟といって、今日という日は鳥の化物が、最後の主役を取ろうと囀るのさ。」此奴だって化物だ、浅野は何も理解できなかった。夜は青褪めた。
「あなたはだれ、私はいまどこに居るの。」
「君の知らないところさ、尤もここが君の知らないところと言ったって君がそれで、君でなくなるなんてことはないのだからね。執着心は常々あるもので一度執着すると心地もよくて抜け出せないが、なんでもないと考えられたらあるがまま。執着すればするほど却って結果が知れないなんてこともあるものだ。」浅野は何も理解できず、いまにも涙が溢れそうだった。「君の知っている目印を探しなさい。」

ちゅん ちゅん 
   ちゅん ちゅん

鳥の鳴き声が近づいて聞こえてきた。「ほうれ、来なすった。可愛らしい鳴き声をして、君の心を啄もうと息立っているのさ。」化物が持っていた金魚の袋が地面に落ちた。「どうしよう。どうしたらいいの。」助けて、助けて。千切れるような声となり、浅野が寒気で震える傍らで、猫の化物は夜空に架かる月を眺めていた。
「何も考えまいとすれば雑念がより湧き出すのと同じで、離れたくて走るとかえって奴は追いかけたくなる。かといって雑念を忘れたり放っておくのもよくない。さあ、歩きましょう、どうか役立たずの私を許して下さい。こうやって現れたからには、君が安心できるところまで連れて行こう。」浅野の手をとり、そういって化物が彼女を送った場所は自然公園だった。敷地に入ると二人は展望台の階段を登っていった。「どうして?」彼女は萎んだ声で聞いた。
「君はここの展望台が好きなんだろう。町の景色を見渡すといい。いつもの景色も夏休みには違って見えるというが、今日はまた特別だ。」
「八月の終わりだから?」
「そう、それに化物が隣にいる。」
「ねえ、さっきの鳥は?」
「消えたよ。」
「あなたは?」
「ここにいるよ。」
「化物だなんて、可笑しい。私、分からない、これからどうなっちゃうの?」
「八月が終わるというから、私もまもなく消えるでしょう、消えなくてはならない。思えば、暢気に日蔭暮らしをしているよりは町の盆踊りにでも出かけて踊れば良かったのだろうか。」
「どうして八月の終わりだからって消えなくちゃならないの、八月の終わりって言ったってまだ何にも終わってない。暑さは続くし、蝉もまだ鳴くかもしれない。あなただって……」
「私は、その程度ってことさ。しかし、それだからこうして現れることができるのかも知れないな。」
突然、化物が指を向こうへ示して、
「君、あれを見て。小鹿だ、町中に、珍しいなあ。」
もしかしてさっき見た小鹿だと思い浅野は見遣った。劇的なものには自らの行為が不可欠だというように、あの鹿を追いかけたら何かがまた始まるのだろうか。しかし浅野はただ眺望に立っていた。綺麗な夜だと思った。虫が鳴いているのも、空っぽの静けさの中で鐘を鳴らすよう。町の夜景が小さく心を揺さぶると、風の吹くように寂しさが舞い込んできた。