archiv

polyphony

秋の明月のよぶ風に夜の歩道は肌寒く、玄関の前に居た猫の姿もなくなって、明るい夜空に平たい雲の流れるその下で、私はこう考えた。

記憶が山々と聳え、九月の大雨が荒々しくその麓をさらっていくと、日中の思い出などもはや消えてなくなった。いまや夜だけの記憶のまま、夜だけに映える山形のまま、私は寒がりで寂しい心へさようならだ。あのくらいの陽光を時に逆らわないで浴びることはできない。そう、ながい、ながい夜の始まりだ。嘗ての人間ならば此処が終着であったやも知れないが、私は未だ始まりを迎えたばかりで、畏れながらしかしこれは、ポリフォニーの続きなのだ。

昔噺

時はむかし、ある小さな村に若い男がいた。その村は大きな川を挟んで都に近く、さまざまな行商人が都へ向かう途中で憩いにこの村へ寄るのである。若い男は彼らを楽しみに待っていた。
あるとき、一人の行商人が村へやってきた。それを聞いて若い男は跳ぶように彼のもとへ向かった。行商人に会うと直ぐさま掘り出し物を窺った。

若い男: なにかいいもん見つかったかい?都へ売りに行くと肝に決めたんだろう、それくらいあるもんだ。

行商人: ようわかっとるわ。そうだなあ、これなんかどうだ。硝子細工の鏡が割れて生まれた破片でさあ、こいつを水に浸すとな、ほれ!

若い男: おい、破片をどこに隠した?

行商人: 違うな。見えなくなるってやつさ。お茶に浸しても、温泉に浸しても同じ効果がある。

若い男: 驚いた、こりゃ凄えェ。これで関所も泳いで潜れば手持ちなしでも抜けられるな。まあ残念ながら鏡さん、お前だけしか適わねえもんで、鏡は鏡、蛙は蛙で人は人だ。

若い男は更に袋の奥が気になった。行商人が上等な態度で品物を出していく。なかなか奇妙奇天烈で面白いものばかりだったが、どうも男の心にはあと一歩届かぬものばかりだった。我楽多みてえなものばかりで、碌なもんがねえ。結局、男はそう思った。そんなことを思いながら、やけくそに物を弄っていると、我楽多にもならない、むしろまともな五味でも迷い込んだというような竹筒が見える。

若い男: なんだいこりゃ、こんなものまで都で売ろうってかい。魂消たごまかし、とんだまやかしだ。これが遠くまで見えるという優れものだったらなあ。きっと、夜空の女神の陰部をさらけ出すってくらい偉大に違いない。なんてな、道具は人に従うもんでさ、たとえどんなに恋人と離れていても、この透き通った恋心で、あのおセンさんの姿も見れるだろうによう。

行商人: なあにお前さん、しみじみと涙目になりやがる。この竹筒、耳に当ててどうにかこうにかするらしいが、俺にはちっとも分かんねえ。ただのいんちきかも知れんし、もしかしたら、神族のみぞ使える神器だったりしてな。

若い男: どおれ、耳に当ててみようじゃないか。

男は竹筒を耳に当てて、精神統一と言わんばかりに口を結んで黙った。

行商人: どうだか、教えてくれ。

若い男: うるせえ、静かにしておけ。

若い男の顔にはだんだん皺が濃く現れてきた。男の表情は険しかった。何かを無理やり聴いてやろうとでも言うようである。しかし、男はそれからしんとした雰囲気に変わった。歌人の心を会得したように若い男は竹筒から聞こえてくる音に耳を傾けた。

行商人: なんだって急にそんな心地好さそうな顔をしやがるんだ。お前さん、なんとか言ってくれ。

若い男: 川のせせらぎの音が聞こえてくるが、それは川が近くを流れているからか? 鳥の鳴き声が聞こえてくるが、それはあの木の梢に止まっている鳥が鳴いているからか? 

行商人: もし俺の声が聞こえるなら、それは俺がお前さんの隣でお前さんに物を言っているからだ。

若い男: だがよ、なんか変な声が聞こえるんだ。変な声というより、声の聞こえるのが変なんだ。

行商人: そりゃ俺とお前さん以外の声しか聞こえまいからな。他にどんな声があるっていやあ……お前さん、若しかして……妖怪かも知んねえぞ…

若い男: 妖怪が、こんな真っ昼間の平穏なところに顕れるもんじゃねえ。ただ、なんつっていいか分からんでよ、なに言ってるかも分かりゃしねえ、俺には、この声が速過ぎるんだ。

行商人: 俺にも聞かせてくれ。俺の耳はどんな言葉も受け流すほどの激流を持つからな。それに合わせりゃ丁度良いってこともある。よし、何々……。

あたりはとても静かだった。せせらぎの音が聞こえ、風が鳴り、鳥が可愛らしく鳴いている。川の向こうには都へ遊びに行き交う人むらの音が微かに聞こえてくる。若い男と行商人のあいだに流れる空気はまさに長閑だった。

行商人: 俺にも聞こえるぞ。俺にも確かに声が聞こえる。聞こえるっちゃ聞こえるが、聞き取るのは困難だ。だが待て、いまなにか分かったぞ。しぶや……はちこまえ……まちわせ……チッ、何にも分かりゃしねえ!

若い男:おいおい、あまり乱暴にすんな。俺がこれを買い獲って、この謎謎を解いてやる。それに、若しかしたらだが、俺たちの発する声が、この竹筒の中で、鳥の鳴き声や風の音とやらの色んな音と混ざりあって、それで人の疾風のような声が出来るなんていう......

行商人: 遊戯物、奇妙奇天烈な我楽多には変わりねえってことだな!

若い男と行商人は声を出して笑い合った。まともなもんがねえな、と竹筒を両手で持った若い男は行商人が都へ行くのを見送った。次はもっと良いもん頼むぞ。若い男の声は、まるで夕暮れどきの鴉の鳴き声さながらに空へ響き渡った。

遣らずの雨が降り、恋人の手はいっそう強く握られる。痛い、という訳知らぬ顔の恋人によりも、女は自分のほんの僅かな微表に驚いている様子だった。朝になって、暗がりの部屋を支配する静寂に顔をうずめる青年、雨脚は次第に強くなる。午後の喫茶店では学生達が今日行ってきたという展覧会の話題で盛り上がり、いつの間にかそれは、医者で冒険家である教授の話に逸れた。夕方、私は雲の薄皮を見つけて覗き込む宵の月光を待つ。もしそれが現れなくとも、日々を潜り抜けながら待ち侘びる。私たちが考えるのは、日々の中で進歩しながら、たとえ相手と会う機会が全くないにせよ、必ずやいつか、彼のもとへ戻るだろうということである。それは一方がそうであるというのでなく、彼もまた同様に或る処へ戻り、そしてやはり私たちは涙と共に落ち合うのである。戯けて月の照らす岐れ路に惑い、己が身に付いたコンパスを忘れ去るとき、月は私たちを呑み込む。

時として

とある邸宅の湾曲した廊下を歩くと、その壁に世界の写真が飾られている。時の空間とでも名付けたくなるような、さまざまな瞬間が所々に並べられ、最後の写真には演劇舞台上に寂しく置かれた唯一の椅子が写っている。私は廊下から庭へ出る。宵へと深まる夕刻の曇り空は深く蒼い、邸宅の白味に芝生の緑が調和すると、私の白い肌は青く光るようで美しい。となりに友は居なかった。またどこかをうろついて、一人で考えごとをする。打ち明けるのは月が見えるときで、私の知らない誰も居ないところで、月よ月よ今日も寝つきが悪いのですという。人間関係は人生に重要な役割を与えるもの、私は友の為に何が出来るかを思う。庭に在る正方形のオブジェは奥行きの不十分な形をしている。私の言葉はきっと塵芥のように過誤を含み、だけどこのオブジェのように、それは費やされる言葉が不十分だというだけで、決して間違った方向へ進んでいるわけではない、そういうことだってあり得るだろう。私は何も恐れる必要はない。もう夜空が広がり、たとえそれが私に真っ黒な天蓋を与えようとも、たとえそこに私の思い描く星が見えなくとも。

性格について

快活、冷静、臆病、高慢、人間は往々にして、こうした様々な性格をもつか、そうであることを指摘され、そのように要求されもするだろうし、また反省において自分自身に求める。殆どの人々はいずれかの性格であるということはなく、殆どの性格を、その可能をとても大雑把な形で含んでいるに過ぎない。しかし、それらを全て適切に使い分けるということは至難である。従って、多くは傾向性になりかわる。

坦々と

朽ちた葉の舞うそのとき、己れの感情を掴む力も失われてしまったような寂しさが辺り一面に、然も母であるような顔をして広がる。私を睡夢へ導く子守唄は風のように軽く触れ、月夜の寝息をととのえ、さすらい人が遥かなる闇夜を往来し、ついに私のもとへ来る。愛を永遠に刻んでしまいたい、と希う心、それを覆い隠して、根付くところも失われてしまえば、孤児のように遊んでまわる無邪気な感情のいつかの消失が浮かぶ。しかし、月よ。他の誰も照らすことができず、ただ月夜だけが照らし続ける地道な時間を私の心の律動もて歩む、歪んだ空間の中でさえ、はっきりと此の道はまっすぐに延びている。私の進むべき道は、此の道だと確信しています。

嵐から

私の呼吸の中で細々と擦れ合う感情は息吹となって葉を散らす、秋風吹いてことわりの葉が落ちる。思っていたものとは違った、そういう誤差からは人は免れ得ないものなのか。それからは、誰も逃げることはできないのか。私のもとへ来たる日々が人々を引き寄せて波のようにさらっていく。私は風のようにさすらい、そして去る。

夜中

布団に横たわる二人の中で、深夜に目の醒めた私は黙っている、寝息を立てる彼女、カーテン越しに聞こえる雨脚の強い音。またそれらを、隣に寝ているこの子の呼吸が束ねて包む。心の中の遣らずの雨が、言葉の後尾に固着して、このへんを流れて消える。小雨に変わる暁に蒙昧な意識は働かず、小石のように落ちてくる小鳥の鳴き声でふと、起き上がる。眠れる友人を起こさぬように、洗面所へ立ち、顔を洗う。諸々の平凡の最中にあって、着々と育まれる秋の生命が鏡の奥に見える。

tranquillo

秋雨がやってきた。それは讃美歌を届けに。時計の針を捻じ曲げるような精神の律動に、指揮された歌が響く。夜の冷静を透き明かす、風が低く静かに広がるのを、暗やみの部屋の窓を開けて迎える私は、まもなく心地良い睡りにつき、寝息と共にこの夜を彷徨うだろう。

死生学

カフェオレのミルクの線密な泡に、自ずから突っ込んだのか、頭隠して尻隠さずとでも言いたげに、間抜けな虫が一匹埋まっていた。もはや死んでしまったかのように見えたが、泡に包まれた状態の虫を紙に包んで観察すると、目が覚めて今さら事態が掴めたという様子で動きだし、虫はそこから抜け出そうとする。なんともいえない偶然も、彼にとっては禍い事だが、しかし此処に悪魔はいやしない。生きてるうちにすべてを我がものにしたいと思うだろう。さあ、立ち上がって、そして去れ。此の世は儚い、か。死よ、あなたのテーブルは、私のとなりですよ。