仕事でお母さんの帰りが遅くなる日は、テーブルの上に果物籠が置かれていて、それは私がチョコレートのような濃くて甘いものを極力避けるように、子どもの頃からお母さんによって周到に準備されているもので、そこにいつもリンゴが入っている。手に持った林檎が絵画の前景となるように片目で照らし合わせると、すでに私は林檎を齧っていたので、はだけたくぼみがケチっぽく奥の絵画を覗かせていた。リンゴ、ゴリラ、ラッパ、パンダ、魅惑の静物画から浮かび上がった破廉恥な言葉遊びは風のように去来する。
大学の講義を終えて帰った私は夏の夕方の明るさをそのままに、明かりを点けずにリビングへ向かい、置いてある果物で空腹を癒すとすぐに自分の部屋に寝転がった。
齧ったリンゴはテーブルの上に放られたまま、夕焼けの沈むのを待っていた。
今日もオトナの男からメールが来た。
物は要らないからお家においで、と少し古めかしいが活き活きとした調子で書かれてあった。彼は大いに私を可愛がってくれるが、愛の告白など意味がないし、愛の告白をするから余計なことを問題にしちゃうんだ、と愛について語るときによく言っていたから、私は彼に好意を抱いていたがそれは心にそっと隠していた。もちろん隠していても、まるで灯籠のように明かめく心は私の恋愛を向こうから証拠立てるのに十分だった。
私はテーブルに書き添えのメモを置いて家を出た。
マンションの入口付近の樹の下にオトナの男は立っていた。足元を照らしていたライトが彼に見分けられる程度の輪郭を与えると、暗がりの道を進むように私は不意に胸のさわぐ思いで満たされた。
彼の部屋へ入ったのは、深まる夜が日付を跨ぐ頃。それより前は近所を流れる大きな川を、特に何を話すのでもなく私と彼と並んで歩いていた。一日の終わりの寝息を担がせるようなおもたい風が吹き荒び、ひと仕事を終えたように私たちは密かに部屋へ入ったが、他愛もない話が細々と継ぎ足されるだけで私たちのあいだには静けさが保たれていた。涼しい風が吹き込む。私は胸のあたりが訳知らぬ様子でいっそう騒がしくなるのを心の奥間でこらえていた。それは、試験の合格発表で自分の名前が呼ばれるのを期待し得る場合に起こる動悸と同じで、私の名前が呼ばれることだけでなく、どんなに分かりきったことでも良い内容が言葉によって聞かされるということをいつでも待っていたからである。
そしてその時が来たのかもしれない。
「俺、東京で働こうと思う。」
と彼は背中を向けて私に言った。
「え、どうして。」
「いつでも遊びに来なよ。」
「うん、行きたい。」
彼は彼の意中について遠くを見遣るように打ち明けていた。その後、私たちは何かを確かめあうようにキスをした。私のくちびるは絵の具をかすめたように赤かった。おやすみ、と心の愉楽を夜に譲歩して私たちは眠った。そのうちの私といえば、しばらく眠ることができなかった。未だに灯る百貨店で買った蝋燭の火が全て消え去るまでを瞑目しながら見届けていたが、いつの間にか灯火は風の戯れで消え散っていた。吃りのように形にならない愛が、いつまでもどこまでも吹き続けるということがどうしてあり得るのだろう。まぶたに強い力を入れてはいたが、結局、ほどけるように私は眠った。
次の日の午後、講義を終えて家に戻るとテーブルの上には新しくサクランボの箱が置かれてあったが、いつものように果物籠からリンゴを取り出すと、私は勢いよくそれに齧りついた。
果物籠の上には、「皿の上のリンゴ」が立派に飾られている。

