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愛よ、永遠に。

ぼうっとするような風が小窓のカーテンを靡かせている。花柄の刺繍が施されたレースのカーテンは踊るように軽やかだ。ルノワールの「皿の上のリンゴ」の複製品がリビングの壁に掛けられてある。私は絵画を悠然と眺めていた。
仕事でお母さんの帰りが遅くなる日は、テーブルの上に果物籠が置かれていて、それは私がチョコレートのような濃くて甘いものを極力避けるように、子どもの頃からお母さんによって周到に準備されているもので、そこにいつもリンゴが入っている。手に持った林檎が絵画の前景となるように片目で照らし合わせると、すでに私は林檎を齧っていたので、はだけたくぼみがケチっぽく奥の絵画を覗かせていた。リンゴ、ゴリラ、ラッパ、パンダ、魅惑の静物画から浮かび上がった破廉恥な言葉遊びは風のように去来する。
大学の講義を終えて帰った私は夏の夕方の明るさをそのままに、明かりを点けずにリビングへ向かい、置いてある果物で空腹を癒すとすぐに自分の部屋に寝転がった。
齧ったリンゴはテーブルの上に放られたまま、夕焼けの沈むのを待っていた。

今日もオトナの男からメールが来た。
物は要らないからお家においで、と少し古めかしいが活き活きとした調子で書かれてあった。彼は大いに私を可愛がってくれるが、愛の告白など意味がないし、愛の告白をするから余計なことを問題にしちゃうんだ、と愛について語るときによく言っていたから、私は彼に好意を抱いていたがそれは心にそっと隠していた。もちろん隠していても、まるで灯籠のように明かめく心は私の恋愛を向こうから証拠立てるのに十分だった。
私はテーブルに書き添えのメモを置いて家を出た。

マンションの入口付近の樹の下にオトナの男は立っていた。足元を照らしていたライトが彼に見分けられる程度の輪郭を与えると、暗がりの道を進むように私は不意に胸のさわぐ思いで満たされた。
彼の部屋へ入ったのは、深まる夜が日付を跨ぐ頃。それより前は近所を流れる大きな川を、特に何を話すのでもなく私と彼と並んで歩いていた。一日の終わりの寝息を担がせるようなおもたい風が吹き荒び、ひと仕事を終えたように私たちは密かに部屋へ入ったが、他愛もない話が細々と継ぎ足されるだけで私たちのあいだには静けさが保たれていた。涼しい風が吹き込む。私は胸のあたりが訳知らぬ様子でいっそう騒がしくなるのを心の奥間でこらえていた。それは、試験の合格発表で自分の名前が呼ばれるのを期待し得る場合に起こる動悸と同じで、私の名前が呼ばれることだけでなく、どんなに分かりきったことでも良い内容が言葉によって聞かされるということをいつでも待っていたからである。
そしてその時が来たのかもしれない。
「俺、東京で働こうと思う。」
彼は背中を向けて私に言った。
「え、どうして。」
「いつでも遊びに来なよ。」
「うん、行きたい。」
彼は彼の意中について遠くを見遣るように打ち明けていた。その後、私たちは何かを確かめあうようにキスをした。私のくちびるは絵の具をかすめたように赤かった。おやすみ、と心の愉楽を夜に譲歩して私たちは眠った。そのうちの私といえば、しばらく眠ることができなかった。未だに灯る百貨店で買った蝋燭の火が全て消え去るまでを瞑目しながら見届けていたが、いつの間にか灯火は風の戯れで消え散っていた。吃りのように形にならない愛が、いつまでもどこまでも吹き続けるということがどうしてあり得るのだろう。まぶたに強い力を入れてはいたが、結局、ほどけるように私は眠った。

次の日の午後、講義を終えて家に戻るとテーブルの上には新しくサクランボの箱が置かれてあったが、いつものように果物籠からリンゴを取り出すと、私は勢いよくそれに齧りついた。
果物籠の上には、「皿の上のリンゴ」が立派に飾られている。





六月の垣間 (3)

音が聞こえる、切妻屋根から滴る雨粒の音、古めかしい響き、ちょうどそこだけ切り取れるような明確な音、きっと晴れだと思った。でも何も見えない。音が聞こえる。街で勢いづいたものが、田舎を訪れて柔らかくなる風の音、暖かい空気、何かが来る、匂い、花の匂い、友の花冠だ、河原を転げ落ちて川へ飛び込んだ花冠。花の混在した匂い、実家の花壇のそれ。南国の土に水の撒かれる音がして、トーストで焼いたパンの匂いが溶け込んだ。雨脚の強くなる時。音だ。水、深まるような水たまり、海、私を呑み込む言葉たち。溢れるように布団の感触が起こると、必死の息継ぎで気を取り戻す朝の目醒め。覚醒の意識の中でさえ、私は目を開けることができなかった。信号のない道路でひたすら長蛇の自動車を眺めるように、苦しくも悲しくもなく、楽しくもなく、抑止を全く為し得ないというように言葉は流れていくだけだった。私はそれを最近になって途端に経験するようになった。だからといって何の得にもならないのは、極めて展開の早い、そして印象の薄ぼんやりとした夢を見たといって何の記憶も残らないのと同じで、私は心のなかで言葉を竪機よろしく紡いでいくが、しかし綴れ織りの言葉の川には何の想念も浮かんでくることがなかったのである。子どものときに気にしてならなかった川の生態、あの川にはどんな生き物が棲んでいるのかと思う好奇心も全く入り込む隙間はなかった。それはある種の潔癖で、私という一人称の概念ですら弾かれるのであった。しかしもしその言葉の漂流が粉々に砕け散って私のもとに集められたとしたら、それはどれほど興味深いのだろう、私は永年の博物学者として生きていく覚悟も持ち得たかもしれなかった。ただ私はまた、今朝見た夢の内容を覚えていないのと同じように、未曾有の現象に対して猿真似をすることしかできないのだ。しかし夢の中で何を見たかという内容よりも、そもそも夢とは何であるかを考えるほうがよっぽど意味のある問いかけであると思っていた私にとって、昼はひねもす、夜もすがら夢の断片を拾い上げることはそれほどおもしろいとは思わず、エルヴェ・ド・サン=ドニの『夢の操縦法』を読んだときなら夢を記録することに大いに好奇心で満たされ、私も一つ試してみようとさえ躍起になったものの、結局、私は三日坊主の夢見のように、実験への企てをがさつな寝癖で忘却の淵へ蹴飛ばしたのであった。それと同様に、しかし万遍なく惜しい気持ちを抱きながら、私はこの愛おしいまでの些細な秘密を忘れねばならなかった。奇抜な経験が到来する前から、今日というこの日を私は楽しみにしていたからである。私は、鎌倉へ行って参ります、そしてまた戻って書きましょう。波に押し流されて辿り着いた浜辺は、彼方むかしの新宮浜、海で私は溺れました。しばらくすると私は目を覚ましたのです。舟に積んだ小道具と手に強く持っていたゴーグルが深い闇に沈んでいく、永遠を望むような輝きが私の顔の陰を一切取り払うと、海の煌めきが無辺に敷き渡って、裸の私は眠るように泳ごうとしたのである。しかし私は結局、浜辺に引き戻されてしまった。

北鎌倉の駅に着いたとき、晴天の風景がどっと目の前の粘り気を吹き飛ばし、異国のような慣れぬ夏が私を待っていた。改札口を出たとき、狭い道のほんの日陰のところに友人はいた。道の向こう先を見ていたのは、私が締まりのない顔をして探すところをこっそり見届けることが気恥ずかしかったからであろう。新参の者を迎えるように、とはいえ旗を携えた観光業者の忙しないそれとは異なって、後押しをするように、或いは私がどこまでも遠くを眺められるように彼女は紫陽花の咲く道を進んでいく。寺院へ向かう道の左手には細々とした川があり、川堀を囲繞する深い緑に水の流れがひっそりと潜むようで、それは暑日にこそ売られる夏のラムネのように冷たく思われた。暑さの感覚に対するひっそりとした風景は夏の趣きを対照的に輝かせるが、足裏を水底に浸したような清らかな安心感は、上澄みの青白い天幕に沈んだこの緑深まる町の居場所をいっそう確かなものにするのである。まるで特定の趣きを共有する人々が集い、文化を形成する村のように紫陽花の咲き誇る寺院の中では、その至高を見ることができる。兎が宇宙を夢見ると、時鳥が戯れに鳴く、小山の樹々や竹藪に覆われた花道もさらなる草花で人間の視界と歩幅を制限するが、それは夏の富士山を美しく眺めようと思えば、夕暮れどき、ラベンダーの咲き渡る大石公園から湖越しに見るのが良いと言われるのと同じであり、我々の視界に入る絶景を、細かなレンズでそれでも収めようとする写真家と同じである。雄大な空が限られた空間から見えると、それは人間を美しい瞬間へ導くのである。限定された空間に偶然に何かが入り込むとき、たとえそれが葉一枚の些細な偶然であれ、それは時という演出家が戯れるように美しい。私たちは写真を撮ることはしなかったが、それは瞬きがその機能を担っていたからであった。

寺院の正面口を通ると、観光業者の旗を先頭に多くの年配の観光客が始終行列を作っているようだった。私たちは彼らを通りすぎると鎌倉の街の方へ向かった。商店の並ぶ街ではまっすぐに伸びた道を人々が隈なく向こうまで、或いはもっと先の方へ歩いている。川の流れのような人波から横道に逸れると、私たちはまるで鰐が湖から地上へ出て進むときのように別の感覚を覚えるのであった。そこは人気のない閑静とした場所で、忘れかけていた陽射しがまた顔を出すと、ちょうど家の玄関の扉を開けたときに外の鳥の鳴き声や虫の音、揺れ合う葉音や隣家の自動車修理工のお兄さんが中古車の手入れをしている音がまったく新鮮に奥行きもなく聞こえてくるのと同じように、潜んでいたものが顕われるのを私は直観したのである。私たちはひと休みをするのにうってつけの喫茶店へ入ったが、ギャラリーがとなり合ったり陶器や小道具の店がこの街に多いのは、若いアーティストが挙って興そうとするからだろうか、私たちが入った昔ながらの喫茶店にも創作意欲を掻き立てるような芸道講座のチラシや変わった小物が置かれていた。しかしそれらを支配するのは時の止まったような古質の、昔の記憶を留めたような空間で、それは針を廻すのを止めた気まぐれの時計を旗下に、かつては意味を持っていたがいつの日か行き場を失った煙草の煙、或いは大人の洒落た口説き文句や鯔背なため息をやさしく吸い込んだ壁や机椅子をこじんまりと並べていた。友人が辺りを見まわせば、視線の先を追うように私は目を動かした。彼女と向かい合って対面するのはこの日は初めてだったが、そのときといえば、私たちの視線は常に好奇心から発せられていて、店の中を隅まで響き渡っていたジャズのように自由に、そしてまた定められた風景の中でこそ楽しむように動きまわるので、私たちが目を合わせることは話をするときにほとんど限られていた。もちろん、黙ってお互いの目を見つめ合うことはなかったし、私には到底出来ることではなかった。友人は円形のテーブルに置かれたコーヒーカップや青色のタンブラーガラスを見つめ、この円形には或る真理があるな、と何やら思慮深い面持ちで私に告げると、私はそれが何かを考えなければならなかった。それは彼女が「何だと思う?」と唐突に聞いてくるからであった。友人は詩人であるが、それだけまた芸術への関心が高かったので、こうした何の脈絡もない質問を放つことは常なることであった。「なんの変哲もないテーブルだよ、コーヒーカップがあって、小皿の上にミルクを容れたコップがある。そのプリン、美味しそうだね。」と何も考えずに私は言ったが、それをいささか無視するように「芸術家はね、少なくとも芸術を志す画家はね、この平凡なテーブルを美しく描くんだよ。その為には何が必要だと思う?」と彼女はプリンの入った皿を私の方へ寄せながら更に疑問を投げかけた。高貴な偶然と感動、と私は、太陽を背景に馬が高い柵を飛び越える瞬間や木漏れ日を浴びながら高貴な人々が愉しく会話をする姿を取り留めもなく思い浮かべていた、「例えばこのテーブルに蝿が止まったのを見るや、君が嫌って叩き潰してしまい、いやはや悪いことをしたかなと少しでも良心が生じるのだけど、嫌だといって為した行いとその後の不善への心遣いとの淵を深めるように、それを助長する事が起きる。この潰れた蝿の上に、注文をしたショコラが置かれるとかね。でも、それは美しいと思う。芸術家は美しいものを描くのだから。」と追加した。私は彼女が自分の答えを持っていることを既に予感していたし、きっと同感を得ることはないだろうと思っていた。そしてやはり、言葉の舌触りを確かめるように黙った後で、「それは神妙で美しい。私も思う。でも君の言う偶然という言葉はきっと必要とするものでも、できるものでもないよ」と彼女はその真相を明かすように応えるのであった。「本当は蝿なんて必要あるかな。こういう立派なお店じゃあ蝿も飛んでなさそうだし、なにより芸術家はこのテーブルが平凡極まりなくて描くに価しないと思えば、このコーヒーカップの位置を変えたり、コーヒーをこぼしてみる、或いは想像を膨らませれば、君のように蝿を描くことだって出来る、つまり、自分から働きかけるということは自分の美的感覚と描く対象を同一にする、黄金比率に沿って絵画の構成を定めるのと同様に技術的なことなんだよ。」私としてはそれは霧の中に一本の樹が立っているような問題のように思われた。確かに人間は偶然に溢れた世界の中で美しいものを見出すことができる、それを美しいと感じることができるのだ。しかしそれでは曖昧かつ不十分なのであって、人間が自分から働きかけることによってこそ、美しいものと美しいという感情が明らかに一致するのだろう。「おもしろいね。芸術家は、いや、人間は美の感覚でもってすれば、このテーブルでさえも美しく描くことができる、むしろ、たとえこのテーブルを挟んで座わらなければならなくて、その条件下で何かを描かなければならないという時でも、ぼくたちは自由に描き得る。」私が最後に「プリン、美味しいね。ありがとう。」と言うと、たまごみたい、と彼女はくるみの添えられたプリンに言葉を加えた。人間各々が見る世界は時折窮屈に思えても、あらゆるものに全てを縛られているのでなければ、何処かに覗き穴ほどの自由の領域が必ずあるのだろう。 それを時に見つけるのは困難であるかも知れないが、実は案外なところで見つけられるのかも知れず、すでに見つけているのかも知れない、それが意図に沿って見つかる時には、夕空で鳩が羽搏くのに似て、きっと美しいに違いない。

ひと休みをして喫茶店を出ると、この店は多様なる記憶の石の中に居るような異質の空間だったように確かに思われ、そのとき、忘れていた外気が私たちの身を包みこんだ。時計が夕刻を知らせると、まだその大部分は青々しかったが、その端のほうでは淡く多彩に空が色めいており、静寂の中へ消えていくように青の深まる海辺へ、私たちはゆっくりと向かった。

六月の垣間 (2)

午後、私は近所の喫茶店へ寄ってみた。私が扉を開けられないでいるところをちょうど中に居て気づいた店番の女性に手伝ってもらった。入る時はノブを廻して押すのだが、気を遣いそうになる年季の入った扉で、もちろん私は気を遣い過ぎたのである。喫茶店の内は非対称的で、二等分に分裂した身体があればきっと片方は用なしとなるに違いないような、それほど私の片側の視覚をインテリアグッズや業務用品、それと白濁の壁が占めていたが、決して狭さを感じさせない空間があった。ソファに座り左手の窓を覗くと、大通りが街路樹を並べて南の方角へ延びていて、それでいて平坦な雲のせいか広大さを感じさせない閉じた外の風景が見える。とても静かで、物音が一つ一つ聞こえてくる。隣の小さいテーブルに年配の男性が姿勢良く項垂れたように寝ているが、それは彼の余睡の時間が三十分に厳しく制限されているようにも思えた。さらに私のちょうど向かい側に座っている女性がいて、本棚から一冊の本をやおらに選び出して読んでいた。外界の弱々しい雨音が聞こえるほど繊細なドビュッシーの「夢想」が何処から流れている。それがまた陶然とさせる雰囲気の根底を泳いでいる為に、腰を落ち着かせた時には水を得た金魚のように私は辺りや天井を感じるままにぼんやりと見遣った。そのとき、本当は此処まで聞こえてこない雨の音をその個人的な鋭い耳で穿つように聞くのでなく、私は想像のなかでただ感じているのかも知れなかった。それはどういう音であろうと不思議に思った。映画館で聴いた音かも知れないし、いつの日かヘッドフォンから想像した音かも知れない、或いは喫茶店に入るまでに聞こえていた雨音の残響かも知れなかったが、私はこの雨の音が外から聞こえるそれではなく、私の心の中でのみ囁やかに響動み得るものだと思ったのである。しかしその音の正体を知ろうと詩人が私の心の中を探ろうとしても決してそれは見つけだせないだろう。それはどんなに様々な「雨の音」があるといっても、そうした音を実現する物理的な音はあり得るが、それを実現させる言葉は決してあり得ないということに由来する。もし「言葉にできないもの」を産んで止まない絶対的な表現が実在するならば、人間は決して「如何に表現すべきか」を問う文学など不可能で、そこには少なくとも妥当性のある形では想像の余地がないのである。快適な室内で私が感じたものは、雨に呼び覚まされた詩情に他ならなかった。雨降る街を映す窓の縁に幾らか古された文庫が置かれていて、それらは別の窓のように思われた。

間もなく先ほどの女性がメニューを持ってやってくると、私は彼女の目を見て会釈をし、彼女の指がメニューを指すと、彼女の声はその辺りに溶け込んだ。あまりに落ち着いた身姿とよく似合った服が彼女の輪郭をぼやけさせると、その具合が内装と調和してしまう為に私はたとえその気がないとはいえ、不純な心を生じさせる動機が一切残されていないのだと思った。そして私も背中を伸ばすようになっていた。それはお店の雰囲気からというだけでない、壁に付されたソファと小さな円卓が狭い間隔で私を挟んでいたからでもある。しかし、私はこの内装設計を精緻で優れていると大いに気に入っていたのである。それは私に美味しい珈琲や可愛らしいチーズケーキを、丁寧に優しく、肉体から美的感覚へと染み渡らせるという最高位の目的に至るまで設計されているようでさえあった。そこでも私が疑念の余地をあずかることはなく、高級料理店の極めて丁寧に作られた海鮮料理に対してきっと美味しいのだと思いながら、他方ではその真味を充分に感じとれない青二才の食感覚への懐疑もあり得ない。それは私に解放感に似た安心を与えるのだ。珈琲の薫りをほんのり口に含ませながらチーズケーキを食べ終わると、まるで砂時計さながらにそれが消化されるあいだ、私は代わりにいつかの映画館のことを雑然と考えていた。あの時の傘は結局、私が持っている。私が傘を差し上げようとした或る女性のことを考えていた。それは遠い昔にめぐり逢ったものが、ごく短い帳場ではなればなれになってしまった或る女の子とのひと時を回想するのと同じで、何が違うと云えば、私はその女の子とまるでドッペルゲンガーのようなめぐり逢いをしたので、悲痛の過去を引きずりながら遠ざかる彼女を私が止めようとすれば、どうしても私は自分の影を掴んでいるように思えて、結局彼女を止め得ないと挫折したことだった。映画館の入口で会った女性との記憶から私が考えるのは、どちらかといえば、歩道橋を渡るお婆さんを此方から彼方まで手伝ってやったは良いが、些かでもその後が気にかかるような遥か遠い黄昏である。私はそれでまた思い起こすことがあった。隣に居た男性が少し先の時間に立ち上がって喫茶店から出ていったので、私はその欠けた空間の分ほど、もっと色んなことを思い起こせる気がしたのだが、それは果たせなかった。それは店の女性が近くにやってきたからで思念の躍起も間もなく消え失せた。そしてその新風たるや何かと思えば、「こちらをどうぞ。」と彼女が言うと、それは香ばしいクッキーとチョコレートの匂いだった。「なんだか私の弟に似ています。大学生だけど、その大人しい、雰囲気というか……」澄んだような息を伴って発せられた突然の声に、彼女の瞳に漂う哀情にどうして応えるといいのか私には分からず、私が大人しいという性質を十分に自分で理解できても、その理解の相容れない別の性質が彼女の言葉の中に頑なにあったのかも知れない。彼女とのあいだの繊細な膜を破らないように私は礼を言った。「どうか、ごゆっくり。」と言うと、彼女は向かいの席へ進んでいった。気づくと向かいに座って本を読んでいた女性は店を出ていたらしい。息の深くまで落ち着いた空気、小粒の音が訪れては消えていく。ソファと円卓のあいだを深く沈み込むように、そして本に写された文字が止めようもなくそれぞれ緩やかに滑りだすうち、私は次第に夢見心地になっていった。


私が目を覚ました時には、前の先客の二人と同じ場所で、そしてちょうど隣には男性、向かいに女性が座っていた。彼らは思いなし若く見え、それぞれがまるで先客の残した影を帯びつつも、しかしまた空気の変わったような新鮮さはあったのだが、その新しさは私の中にのみ成立するのであって、彼や彼女からしてみればどんなに若い私でもとっくの昔の遺物のようであり、それも無関係に時の流れに任せることのできる遺物であった。朧気に私は天井を見上げてしばらく静止していたが、やおらに立ち上がって店を出ようと決めると、もう一人の店番の男性がそっと応じてくれた。喫茶店の入り口の扉を引く時、私は混じり気のない、風のように素直な自分に気がついた。

六月の垣間

驟雨が夜を形づくった。私は傘を生憎持っておらず濡れる外なかったが、何処か遠くへ歩くわけでもなく、行きたいという場所は駅からすぐのところにあったのだから、幾らか雨に濡れても瑣細な我慢だと思った。雨に打たれる人間に狂気を感じとるのは、それが彼の野性をあばきだすからだろうか、むしろ人間が雨に濡れるという状況のなかで自ら狂気を示そうとする表情かも知れない。どちらにせよ、私は一心に目的の屋根のある場所、濡れずに済む場所へたどり着く自分を思い描くだけである。私の向かう濡れずに済む場所は高いビルにあった。まるで得体の知れぬ巨人を相手とするように、それがまた一向に動こうとしない為に少しだけその身を慮るように、建物の真下から空を臨むと私は遙か昔の廃れた文化を思い、それを灰色の雨が更に強調するのであった。鈍という雨粒が恥じらい気味の額に当たると、疎ら模様の私は建物の入口へ向かった。入口から五階へ上がれば小さな映画館がある。下層階で各々の買い物を済ませた人間が来るというよりも、それを避けて来るという隅に居つく張る人間たちの憩いであり、映画館それ自体も、まるで蜘蛛の巣のようである。そこへ私も映画を観に来たのだが、目当てはスタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』と既に決めていた。この作品こそは、必ず、その新鮮な刺激を大きなスクリーンで経験しようと思っていた私の貴い夜である。余計な心配をしないように開場前には御手洗いへ行き、そのあと持参したサンドイッチを食べて、そして私は大きなスクリーンをちょうど真ん中に割ったところに、恋愛盛りの二頭を右手前に席に座る。息を呑んで待った。映画が始まると、いつものように私は惹き込まれていった。主人公アレックスの鋭い眼つきから、映画の世界へと。

観終わるときには夜も幾分深まって、私は満足したという表情、それは空腹が満たされた時とは全く異なる様相であり、まるで極めて深い核心を得たという時の神妙なる心持ちで、自分は全く変わってしまったのだと言わんばかりの、良質な文化に触れると決して避けられることのない表情をしているに違いなかった。上映前後の御手洗いを完璧に遂行した後で五階から地上一階へ降りたとき、雨はいっそう強く降っていた。私はこの日に此処へ『時計じかけのオレンジ』を観に来たのだが、その印象の奥で『雨に唄えば』がこだまするようであった。隣に偶然いた女性がその雨に耐えうる傘と心を持ち合わせておらず、幾時を牲に難渋していたのを見て、私は隣のスーパーで都合良くビニール傘を買うと、その女性に手渡した。私の前で貰った傘をどのようにさして歩けばいいかと彼女は随分戸惑うだろうと決めて、それより前に去ってやろうと私は一目散に駅へ走った。交通に運良く巻き込まれず駅の入口に着くと、傘を渡した先ほどの女性が私の後ろにいた。それはまるで私と鎖で繋がっていて、私が動けば彼女も仕方なく動いてしまうという風に、彼女も自分が何を考えているのか分からない様子であった。彼女の靴は濡れていたに違いない、大きな水たまりを強く踏み込んだに違いない。「ありがとう。」と彼女は言った。女性の麗しき黒髪は肩までしか伸びていなかったが、彼女が乱れた横髪を左手で耳にまとめてかけたとき、私の先きの自分の行為がてんで粗略なものだったように思われて、私は相手の大人びた仕草から自分の恥ずかしさを感じるのであった。私の粗略な癖はそれだけに留まらず、どうかして私は「いえ、こちらこそありがとう。」と言うのである。見透かしたように彼女はそれに微笑んでみせ「電車に乗りますか?」と私に聞くと、私はやっと気を落ち着かせた表情でそれに応えた。途中まで同じ帰り道だと知り合って、私と彼女は駅の構内へ歩いていった。そのあいだ私たちは他愛もない、自分にも相手にも当たり障りのない話をしていたが、それはお互い、各々の心の中では最も重要な事柄が夜を占める暗闇のように潜んでいて、それを如何にかして丸めたいと懸命に注意していたからに他ならなかった。私は兎に角、途中まで帰り道が同じで、いつか別れを告げる時がきて、それは当然のことであり不逞の心は全くないが、そのとき一体どう振る舞うべきかという困惑で頭が一杯であった。そうした想像はどんなに周到を極めても決まって現実に当てはまらない。結局「ありがとう。」と「良き夜を。」を互いに言う合うのだが、それはもっとも、今日という貴き一日に対してそうするのであった。途中の駅で彼女を無事に見送ると、私の心の中に寂しさが込みあげてくる。一日というのは短いものだ。しかし時には長くも感じられる。いずれにせよ、その内に誰かと伴にする時間と云えば儚い。それだからとて、私は刹那を徒に有難いと言って微塵切りにするわけではない。寂しさを募らせ、儚さを漂わせるような、私が言う時間というのは決して一秒でもなければ一分でもない、一日でもなければ一年でもないのである。彼女は東へ進んで行った、何を思って帰宅するのだろう。私は北へ進み、そして遂に地元に到着すると、宵から降っていた雨が僅かな音を残して止んでいた。

ファウスト

ゲーテのファウストを読み終えた。読み始めから存外早かったが、ファウストを初めて読もうと思った時を思えば、大洋に遠く隔てられた世界を望遠するように、それはやっとのことである。ゲーテの文学作品は、これで三冊目になるだろう。はじめに「若きウェルテルの悩み」を、つぎに「タッソオ」が続き、そして「ファウスト」である。ファウストはどの作品よりも早く私を読書へ誘うが、それは有名で、ただそうであるのみでは勿論ない、代表作として、生を豊かにする作品として有名だからである。また私はドイツ語を読むというので、何となく教養として典型的なものではないかと思っていた時期もある。然し何にせよ、私は結局今まで読むことも読み始めることもなかった。それは単に遠く領外の小難しい調子がそうさせたのであるが、もとより私は語彙を知らない為に為体に陥るのが原因であった。そうして、その気怠い衣を振り払えば童子さながらに読むのであろうか。心に含ませながら読まないでいる作品と言えば無数に至るが、常々気を起こしていたものに対して私も目を醒ますということはなかなか稀なことで、それだけで素晴らしい経験を与えられるようだ。


「若きウェルテルの悩み」は美しい。「タッソオ」は私に心の霧の所在を明らかにしてみせ、捻くれ柔弱な私を堂々たる歩みへ、少なくともその確たる一歩へ導いた。そして「ファウスト」は崇高である。この端的な表現は何の真実も与えないであろうが、私がこの作品に最も何を見るかといえば、それより外はないと思うのである。舞台上に登場した幾万の存在は、過ぎると思うほど多い、私はそのお祭り騒ぎに幾度飽きそうになったか知れない。そして奴らは各々語っては消えていく、まるでゲーテが出会った人間や歴史の諸々を何も残さず登場させているようで、掴みどころがない。メフィストフェレスが「永遠な虚無」を好きだといったとき、やっと彼らの役目が果たされたように思えたものだ。多くの人間が陥っては嘆きに尽きるところであるが、本質がない限りでは、あらゆる多様なるは端的に虚無である、其処に意味などあり得ない。これに気づかない人間は粗雑な雑草を心の寝床にするだろうが、そうした人間が居るわけではないだろうし、居たとしても彼はそれでも人間であり得る。よろずの神々も、悪魔や天使、霊魂も、人間や魔女であっても、めいめいの語る教訓はどんなに諸行無常の世の中であれ我々の刹那において意味を多分に持つ。このことは人生を考える以上極めて重要であって、例えば人生の意味ということに関して言えば、存在するということが何より自然なことである、と我々はそうして気づくのである。人間から虚無がどうしても離れないと雖も、最も根底に存するものが、ただそれだけが、無常を混乱の淵より救いだすことができる、つまり、虚無という天幕に覆われたものが存在の光に照らされるとき、そのとき意味を持ち得るのである。私はこの点に関しては、ファウストを読んで改めて明らかに思うに過ぎない。しかしまた、私はこれを始点に、この作品の、そして人生というものの会得を精巧させるのでなければならないだろう。そして私は「永遠な虚無」という新しい萌芽を見つけたのであるから、それはまた別の機会に別の形で書くかも知れない。ところで、ファウストは何度も読むようなものではない、その時折の教訓は頼もしいがそれは決して満足させはしない。無量の存在が舞台を飾るとき、此の作品はとても美しい。が、それよりもこの作品は崇高へ向かう。それはこの作品を読むのに骨を折る、いわば広大であるという故か、その語調の為かも知れないが、私の今まで述べたことが示すように、この作品は刹那の美しさを極めるものでない。寧ろ永遠なるものが、崇高の感情へと牽いて至らしめる。永遠を求める花火だけが、美しき火花を散らす。


「ファウスト」という作品は読むのに面倒な作品だろう。類稀なる想像力と豊穣なる教訓によって飽きることなく我々は娯しむにしても、やはり長いと思うのであるが、それは耐えるべき長さであって、乗せられた車に漂う疲労感でなければ、長丁場の旅路の末に行き着く達成感である。それだけこの度の読書の経験は充実していて、それが暖められ熟した時には如何なる実のりが見られるかと、楽しみである。想像するということをより娯しみに生きられるようで在りたい、と私はこの作品をもって思う

記憶とめぐりあう


花のある庭園に通うたび、違った種々の花にめぐりあう。この薔薇の色調は吐露けるように脆く、燃えるように仄かな記憶。新草に炙り出された黄昏の痕。


居酒屋に行けばみんなこんな風だ、気楽だ、駄糞だ、そこに一体なんの気後れがあろうかと思う。気違いめ。それでまたみんな、良い様に生きている。はあ格好良い、格好良いぞ。そしてぼくもその一人だ。嬉しい、嬉しいね。人生の鋭い角に腕や片脚をもぎとられながら、悲哀の涙が坂道から勢いづいた風に靡く、虚ろな心も水面に照らされ美しい、ぼくは明日も曙光となる。今日も今日とてこの喜びを一切忘れ去るのです。さようなら、さようなら!

土俗の世界

穴を穿ちて見る景色、色遣いは冷めて、人気はない。私は一瞬、奥の坂道を自転車に乗った女の子が下るのを見たが、彼女はすぐに辻道を東に曲がった。風はその女の子を見失ったというように、四方見渡すばかりも手持ち無沙汰で忽ち消えてしまい、先ほど目に映った閑静な午後が戻ってきたのであった。外へ出るのも嫌気がさした。塞ぐように穴ぼこを背にして、そうして私はまた俯いて足元を見るのだが、見たくて見るのでもなかった。外から雨粒の跳ねる音が聞こえた。私はもう一度、細い光と小さな埃の通路に目を遣った。確かに雨が降り始めていた。暫くその経過を観察しようと、無言で、真面目な顔をして凝然としていた。


小さな丘に起つ巌の中に、私は居棲している。住宅が並ぶ其の丘に谷底へ急落するような坂道があり、そこをすぐに降ると町の広い十字路に衝き当たる。さらに奥へ目を向けるとおだやかに長い坂道があり、向かいの丘の、ここから見える一番高い建物は細長い尖塔を輝かせている基督教の教会だろう。私はそれ以外の景色を知らないが、太陽と月とが繰り為す影絵は万来無限にひとしくあった。


私は卓上の指環を手にとって雨の音に照らしてみた。彼方の独逸から態々買い寄せたニッシングの指環の、極めて繊細に洗練されたダイヤは奥間の本棚をそのまま吸収すると、私に掴み所のない智識と記憶を醸し出す。それらの多くは私と殆ど関わることもなく、唯々本棚を埋めているというだけの、或いは余分な夢想を抑制するに効く現実の物体であった。埃が被さるとそれは秋の墓石に似て、思い出されることと云えばその物を前にしては何もなく、侘しさや時の移ろいを感じるだけで、併しそれがまた、棚の幾らかの重要な本と私とを結ぶひとつの舞台となるのである。埃のまた少しばかり巨大になったのもあるようだ。背表紙を極小さな虫が這いまわると、第二幕の頁に潜り込んだ。


雨の様子と云えば今や調子は整ったという風で、私はそれで今日は雨の日なのだろうと思った。覗き穴から射し込む光が美しい。私は初めて外へ出てみようと思った。午後の太陽が極度の心配からまるで子どもの様子を覗き込むように、雨の日の広い雲のあいまから町を伺おうとしている。

智慧

多くのものが塵芥に伏される時のなかで、未熟にも勝ち得た今迄の経験が、私の中でより尊い偶然によって引き寄せられるとき、それは美しいのだと思う。ちょうど其のものに調和する貝の形態のように、周囲の自然に調和する千々の動物の模様のように、時には醜悪な様子を醸しながらも、自ずと私の経験は形成される。憂鬱も、狂信も、熱狂も、復讐心も、怪奇も、茶番も、夢想も、気紛れも、鬼火の如く奥のなか間に現れるにせよ、妖精の如くかたわに現れるにせよ、どうだい調子はと尋ねる感じでも、前衛の閾には入れまい。彼らは弔い楽士で、私はただ唯一の行進者だ。憂鬱も、狂信も、熱狂も、復讐心も、怪奇も、茶番も、夢想も、気紛れも、私の声音に相応しいが、だからとて放埓に踊らせたりはしない。彼らは弔い楽士で、私は獣を輪廻へ牽きて行く智慧だ。

ひざしとまなざし

最近、或る友人に呼ばれて共に何をしでかすと思えば、会うより前に彼から人間として極めて粗略に扱われ、それはとても虚しい気持ちを与えたが、にも関わらず、私は依然としているようだ。


何事にも動じない心など彼方の話で、或る動揺を経験すると結局何かしら考えてしまうのであり、これは私の癖でもあるが、消去できる癖ではない、謂わば性質であって、元々この地には妄想という妄な草が茂っていて、私はそれをどうにかしたいと思い、人間達が遠く何処かで知恵の種蒔きをしたり、知恵の砂漠を越えるあいだ、私はこの天然草のことを考え続け、それでも私は今でさえ改善を思うのだが、その草叢に輝く純然たる秩序の芽がひとつ、確かに見出されるのを知り、それは生に対する人間の根本的強さを思わせ、ひとたびそれが在ると知れば、それだけで充分だと思うほど、燦燦たる陽天に呼応する此の地を、その豊穣なる果てをまで、存分に思い知るのである。



不動の心などとはあり得ぬ。このまた最近の所縁で卓見の人の言うよう、幾百条の水脈の、婉然たる流れのように私は悩むのだろうと、のべつ幕無し忙しなく雨の降り、天地万来のオオツヅミに木霊して、とこしえのまなざしを咲かせよう。

あめの日

「気つけてな。」
男面して帰りゆく、彼方の背中を追って走った雨の夜。結局、息を切らして立ち止まったとき、私は遠くも近くも定かならぬ何処かの住宅街に入り込んでいた。通塗の塀があたかも向かいあって目を合わせるように奥へと並なる夜道があった。寂然とした自動販売機と電灯の点々とした明かりだけが、あふれだすような哀情の燻りをなんとか抑えている。私の身体は濡れて重かった。立ち止まって自分の身体の所在を確かめると、腕に脈々と動線を画く雨粒が、肌に浮いた血管のうえを過ぎ、手指を走り、指先を離れ、いっそう重く、涙が落ちた。


感情の由来を探すように奥を見上げると、雨雲がほんのわずかに夜空から浮き出ている、ちょうどそのあいだから輪郭のぼやけたまろやかな光りが見えて、私は恥ずかしい気分になった。淋しい気持ちだった。なんとかしてよ、強くそう思った。心地良い夜風と共にいつも眺め見る月を、いやに大人しいと、このとき私は思うのであった。